2012年1月20日
上江洌尚子
カルト宗教について
オウム真理教幹部の平田容疑者が警視庁に出頭したニュースを目にしない日はありません。
麻原彰晃は、1980年に保険料の不正請求が発覚
その二年後、無許可の医薬品を製造販売したため薬事法違反で逮捕されています。
同じころ、世界統一教会の霊感商法が始まっています。
このころ麻原は知人に「最も儲かるビジネスは何か知っているか?それは宗教だよ」と、もらしていたそうです。
1984年麻原は株式会社オウムを設立する。
三年後1987年、オウム真理教を設立。
翌年1988年麻原はダライラマ14世に接見、以後その様子を自己宣伝に使う。
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有名人とのツーショットを騙しに使う手法は、詐欺師の定番であります。
沖縄リバイバルチャーチの儀間も一憶200万円詐欺事件の真っただ中、主犯の長一夫らと共に韓国旅行に行き、信徒を欺くためにチョーヨンギと写した写真を私達信徒に見せびらかせていました。チョーヨンギも今となっては実態がバレ偽牧師で有名になっています。あの頃は世界一のカリスマ牧師と言われていました。
あの当時(19992年)世の中では
アイドル歌手であった桜田淳子が統一教会の合同結婚式に参加したことでマインド・コントロールという言葉を私たちが耳にするようになりました。
合同結婚式から三年後1995年1月17日阪神大震災が起こりました。
その三カ月後、1995年3月20日地下鉄サリン地件が起こり、その年の6月麻原彰晃が逮捕されました。
あれから17年が経ち、当時三歳だった子が今年成人式を迎えています。
日本中を凍りつかせた、あのサリン事件も阪神大震災も知らない若者が大勢いるのです。時の流れを止めることは誰にもできません。しかし、風化を止めることはできるのではないでしょうか。あのオウム事件は、これまで日本社会が考えようともしなかったいくつもの問題を投げかけていると思います。このような事件を二度と繰り返してはいけない。
そのために、それぞれが自分の問題として責任を感じるべきだと思います。評論家的態度を捨て、第三者的ではなく、共に痛みを担いながら、突き付けられた課題と取り組むことが求められているとおもます。
それぞれが責任転嫁を止め、真正面から立ち向かわない限り、類似したカルト問題が起ることは避けられません。あの当時、私はオウム事件を憐れみをもって見ていました。テレビのワイドショウに目を見張りながら思いました。私は変な宗教には騙されない、宗教を取り違えると悲惨なことになることもよく知っているつもりでした。しかしあの頃、現実の私は沖縄リバイバル教会の中でマインド・コントロールの真っただ中にいたのです。
いかなる人であれ、団体であれ、いいかげんなことや、偽りを言うことは許されません。宗教であるが故に信教の自由に守られ、何の責任も問われないというのもおかしな話です。
ビジネスの世界には、ビジネスのルールがあり、詐欺まがいの商いをすれば、法の裁きを受けねばなりません。学問の世界も同様、そのルールを破れば、学者としての信用を失います。マスコミの世界も同じ、社会のどの分野であっても、それぞれの世界において倫理基準があり、医学の世界には医の倫理がある。それぞれの世界で、その分野特有の倫理規定をつくる努力をしています。もしそれがなければ歯止めがきかなくなり、暴走する危険性があります。
ビジネスの世界には、ビジネスのルールがあり、詐欺まがいの商いをすれば、法の裁きを受けねばなりません。学問の世界も同様、そのルールを破れば、学者としての信用を失います。マスコミの世界も同じ、社会のどの分野であっても、それぞれの世界において倫理基準があり、医学の世界には医の倫理がある。それぞれの世界で、その分野特有の倫理規定をつくる努力をしています。もしそれがなければ歯止めがきかなくなり、暴走する危険性があります。
ところが、現代の多くの宗教グループは、この宗教の倫理を無視し多くの場合意図的に反社会的動きを行っているようです。このような宗教集団を「カルト教団」と呼ぶのです。
世界にいくつぐらいのカルト教団があるのかご存知ですか。その実態がどのようなものなのかは正確にはつかめていないそうですが。その数は3000から5000とも言われています。それほど数にバラつきがあるのは、カルトが秘密主義という特性を有していて、調査しにくいことにあるそうです。
ある学者は、毎日一つづつ新しいカルトが誕生していると述べています。しかも、宗教は生き物である。ある時点まではカルトに数えられていなかった教団でも、何かをきっかけにカルト化することはよくあるそうです。
しかし、カルト教団の数がはっきりしない決定的な理由は、「カルト」という言葉の定義があいまいだからです。カルトの定義次第で、あるグループはカルト教団に数えられたり、そうでなくなったりする。しかも、どのように定義したとしても、グレーゾーン上のグループがおびただしく存在するのです。
このようなカルト集団の動向に合わせて、カルトを調査・研究する、あるいはカルト教団のメンバーを救出しようとするグループもあります。それに携わる人々の中には、かつてカルトを経験し、今はカルトから開放された人々も多くいます。60年代の半ばには、すでにそのはしりを見ることができるそうです。アメリカ宗教センターが調査した『1993年のカルト研究組織の年鑑』によれば、そのようなグループは、全世界に693も存在するそうです。むろんその大半はアメリカにあり、これらのグループは、被害者の家族が中心になっているもの、心理学を専攻したカウンセラーによるもの、カルト集団からの救出を目的としたキリスト教の教会を主体にしたものなどさまざまです。
このように世界中に広がっているカルト研究機関は、さまざまな書籍やビデオなどを通じて、カルト教団の動向を報じています。さらに、さまざまな国際会議を開き、情報交換を積極的にすすめ、ネットワークづくりに励んでいるそうです。その集いも、学術的色彩の強いものから、カルト教団から脱出の人たちのグループやカルト教団から家族を救出することを目的としているものまで、大変幅広いそうです。しかし、世界に遅れ、これまで日本においては、カルトの研究はほとんどなされてこなかったと言わなければならないのです。
<カルトに着目する必要性>
しかし、オウム事件以降、日本の社会も変わり、「カルト」あるいは「マインド・コントロール」という言葉を聞くようになりました。 しかし、オウム事件が「カルト」あるいは「マインド・コントロール」という問題をはじめて突きつけたわけではありません。統一教会の霊感商法や集団結婚式が話題になったとき、「マインド・コントロール」に関する書物が出版されました。あるいは、輸血拒否事件や家庭破壊という問題でエホバの証人の家族から相談を受けた人々は、この問題と真剣に取り組み、研究してきたそうです。しかしそれは一部の人の間で話題になっただけで、社会全般における関心事にまではならなかったのです。
宗教はこわい、だから宗教には近づかない方がよい、そう思うだけでは問題の解決はないのです。 日本のマスコミをはじめ、有識者たちは「カルト」という言葉を「閉鎖的・破壊的な宗教」という意味で使っているようです。
この場合、「破壊的」という言葉は二つの内容を含みます。一つは、ある人がその宗教集団に入信すると、その人がもっていた本来の人格が破壊され、その宗教集団が目論んだ人格に置き換えられてしまうということです。もう一つは、その宗教集団以外のすべての世界を自分たちに対立するもの、迫害者、呪われるべきもの、サタンと見なしそのように考えるように教え込むということです。
『カルトとは、何らかの欺きを伴った手段によって、あるリーダーまたは組織のもとに人を集め、マインド・コントロールの技法を用いて、その教義およびリーダーを無批判に受け入れさせ、その集団以外の情報は操作され偏見に基づいているとして遮断し、その集団こそが神に選ばれた真理の世界、集団、であるかのように生活することを求める宗教教団である。』
これによれば、カルト教団とは、欺きを伴った勧誘、権威主義的リーダーの存在、マインド・コントロールの利用、盲目的服従の強要、情報の遮断、同質の人々による共同体の形成などをその特性、目的としています。
ほとんどのカルト教団は、外部の人からカルトに見られないよう、細心の注意を払っています。従って、ある教団にこれらの特性の一つ一つが個別に存在するかを詮索するより、その教団の活動が、全体としてカルト的要素をもっているかどうかを見極めなければならないのです。
ほとんどのカルト教団は、外部の人からカルトに見られないよう、細心の注意を払っています。従って、ある教団にこれらの特性の一つ一つが個別に存在するかを詮索するより、その教団の活動が、全体としてカルト的要素をもっているかどうかを見極めなければならないのです。
「カルト」という言葉は不名誉な響きを伴っています。だから、外部からカルトと呼ばれる宗教教団であっても、自らがカルトであるとは決して認めないのです。従って、私達はカルト教団の弁明を鵜呑みにせず、その教団の活動の全体像を把握して、正確に判断しなければならない。誰もが異論なくカルトと呼ばねばならないグループもある。その場合、微妙なグレーゾーンが存在することは避けられないのです。
ある宗教教団の活動のうちに先に述べた内容が見出されるなら、その宗教は健全とは言えない。そのような欺きの活動を正すべきであると専門家は言っています。
※権威主義的なリーダー
カルトには、その組織内の人々に対し、絶対的な忠誠を強いる中心的なリーダーが存在する。その人物は、宗教的教義および組織の活動の決定において絶対的権威をもっている。メンバーはリーダーに対して疑問をもったり反抗することは決して許されません。絶対服従が強いられます。
正に正に沖縄リバイバル教会はその典型でした。牧師に疑問を抱くこと、説教の一語一句に疑問を抱くことなどあってはならないことでありました。それを口にすることさえ絶対に出来ないことでした。しかし自分の心の内に湧き上がる疑問は止めることはできず、湧いてきた疑問に対して徹底的に悔い改めるのでした。その思いはサタンの罠だ。サタンからの攻撃を私は受けていると思い込み、悪霊追い出し、血潮の祈り、聖別の祈り、悔い改めの祈りをひたすらにひたすらに無心に、無心に、没頭ただひたすら没頭あるのみ、今思うとおかしくてありえない祈りに没頭している馬鹿な私がいたのです。
その思いや行動は時間と共にパターン化され固定化し習慣化していきました。沖縄リバイバル教会の中での私の頭の中は、常に悪魔悪霊との戦いの日々でした。今思うと実に奇妙で異常な狂った人達の団体でしかないのです。
カルトにおいては、リーダーは神に選ばれた特別な存在である。神はそのリーダーを通してのみ語る。従って、そのカルト教団の信者のみが真理を保有し、継承することができる。組織外の人がその真理を手にする可能性は全くなく、その組織を離れては存在しない。他の集団が説くものは、それがどのような組織であっても、どのような内容であっても、偽りの教えであるとカルトのリーダーは教え込むのです。
カルト教団の内部では、「その真理や教え」は検証されたり、批判されることはないのです。カルトのリーダーは、その教えを変えたり、後戻りさせたり、それまでと全く矛盾することをしばしば教えるが、そんな場合でも、さまざまな言い訳をして正当化してするのです。
普通の社会では、「間違いでした、勘違いでした」と謝罪すべきところだが、それではリーダーの権威が失墜してしまう。カルト教団では、リーダーの権威を守らねばならないので、絶対にそんなことは言わないのです。
自分たちのグループは神から選ばれた潔い組織である、次にどのような新しい光や風が与えられるのかを楽しみにして待っている、などと開き直るから、あいた口がふさがらない。
カルト教団は、外部からの批判を問題にしない。彼らにとっては、もともと外部の人たちは真理を理解する力などなく、耳を傾けねばならないような相手ではない。外部の人たちによる客観的な情報、学問的判断、常識的推測も気にしない耳になど入らない思考になっているのです。常識こそサタンが用いる武器であり、外部の情報を得たいと思うこと自体がサタンの誘惑であり罪なのだ。信者になると、カルトの生活がすべてであり、外部の世界がどう考えようと かまわなくなってくる。仲間同志で通じればそれで十分なのです。
色々なことを私は悔しい気持ちで思い出します。まだ盛山和子さんと出会っていない頃のことです。私の店は2002年にオープンしました。はじめの1年はお客さんもまばらでした。しかし、2003年頃から、沢山の方が私の店に来るようになりました。その中に他の教会の信徒さんも大勢いました。その中に沖縄隣人教会の信徒さんがいてその方と仲良くなりました。
その信徒さんがある日、私に聞きました。「お宅の教会の牧師先生は幾ら御給料をもらっているの?」その言葉を聞いた瞬間私の頭の中は火花がパチパチと散り私はパニックになり固まってしまいました。あの頃の私はそんなこと考えたことも想像したことも無かったのです。考えること自体イケない事だと叩き込まれていたのです。対応できない私は「わからない」と答えました。するとその隣人教会の信徒さんはけげんそうな顔で私を見つめていいました。
「牧師の給料がわからないなんておかしいわよ!うちの教会は牧師先生のために保険も全部かけて30万円御給料を出しているのよ。牧師の給料は信徒が決めるのよ。」と言われました。それを聞いた私はさらなる衝撃を受けました。
しかし、牧師の給料を知らなくてもいいんだという私がいたのです。そればかりか話の中で、その人が経済的問題があると悩んでいたので、私はここぞとばかり反撃するのでした。「あなたは10分の1献金をちゃんと捧げているの?」すると彼女は無言で呆れた顔をしていました。本当に今考えると私は何とバカだったんだろうと恥ずかしくなります。
※閉鎖的秘密主義
カルト教団は、他の教団が主張しない独特な教義を説いている。その独特な教義は一見もっともらしく見えるが、その道の専門家から見れば、全くデタラメな解釈がほとんどである。しかし一般の人は、そのことについての知識がないので、教えられたことを鵜呑みにしてしまう。
それは聖書の正しい読み方を知らないからです。カルトのリーダーが、聖書の言葉を自分たちに都合よくねじ曲げて解説しても、それに気づく人はまれなのだそうです。
カルト教団は、他の教団が主張しない独特な教義を説いている。その独特な教義は一見もっともらしく見えるが、その道の専門家から見れば、全くデタラメな解釈がほとんどである。しかし一般の人は、そのことについての知識がないので、教えられたことを鵜呑みにしてしまう。
それは聖書の正しい読み方を知らないからです。カルトのリーダーが、聖書の言葉を自分たちに都合よくねじ曲げて解説しても、それに気づく人はまれなのだそうです。
これだけ情報が多い社会では、一般の人が個々の情報の真偽を選別することは不可能です。その結果、一つ一つの情報を確かめることを止め、信頼できる情報源を求めるようになります。情報化社会においてこれはやむを得ないことかもしれない。しかし、信頼できる情報源であっても、なお、自己の責任を放棄してはいけない。個人はそれぞれの目と耳でその情報源からの情報を一つ一つチェックする責任があります。
しかし、カルト教団は反対の意見や姿勢をとり信者が自分の意見をもつことは神に逆らうことであると教える。カルトのリーダーは、自分の意見に盲目的に従わない人は、「独立した考え」をもとうとする人であり、不従順で、高慢な人だと断罪する。
沖縄リバイバル教会の儀間のやり方は統一教会の手法とよく似ていることに気がつきます。儀間は聖書を捻じ曲げて語り聖書のいたるところから、自分の都合のいいようにみ言葉をくっつけたり切り離したりやりたい放題なのです。それに世の中の情報は何らかの形でサタンが支配している。鵜呑みにするとサタンの罠にはまるからクリスチャンは絶えず神に祈る必要がある。教会外で仕事中車を運転している時でも「主に祈れ」窓を閉めて大声で祈りなさい、常に儀間のメッセージテープを聞くように刷り込まれていたので、頭の中は常に教会の中にいる時と同じ状態でした。
み言葉には力があるといい驚くことに聖書を開くだけでもみ言葉の力は働くなどともいっていました。今なら、「馬鹿か!」と言いますが、あの当時は疑うことなく「そうなんだ!」と鵜呑みにしていました。何も考えない、考えることを捨てたロボットであったことがよく分かります。人として機能していないです。
教会音楽を毎日聞き、車から大音量で教会音楽を流して走っていました。振り返ってみるとどう考えても「馬鹿もの」としか言いようがありません。儀間盛人はよく言っていました。世界の情報は操作されているテレビのニュースは実際の情報ではないことが多いんだよ。キリスト教会には表に出されない真実の情報が世界中から入ってくるんだ、などと偉そうに語っていました。一度も働いたことが無い世間知らずのバカ息子の嘘も見抜けない私がいたのです。
さらに、多くのカルト教団では、その教義を展開するのに特殊な言葉を使う。そのことは、組織の中にいる人に対して、教義が神聖で、ありがたい特別なものという印象を与える。信者たちはその言葉を使うことによって、外部の人に対する選民意識、エリート意識を感じる。反対にそのような言葉は、外部の人がそのカルト教団とコミュニケーションをとるための障害になる。カルト組織が秘密主義に映る一つの理由は、このような言葉の壁にある。
カルト教団が、それまで使われてきた用語を用いる場合でも、その言葉の伝統的な内容とは違う意味で使うことが少なくない。このことは、新しい言葉が使われる以上に、やっかいな問題を引き起こす。カルト内の人と外の人との相互理解や対話を困難にさせてしまうからである。というのは、それぞれが自分の理解した仕方で言葉を使うので、議論がすれ違ってしまうのである。
カルト集団の人と話した外部の人から、宇宙人と話をしているみたいだ、平行線に終わって空しさだけが残る、などという感想をよく聞く。その大きな原因は、同じ言葉を使っても、指し示している内容が違うことにある。しかも、このようなコミュニケーションの断絶は偶然に起こるもものではなく、カルト教団が目論んでいることである。それは、組織の信者を外部世界から隔離するための重要な戦略の一部である。
教会内でしか通用しない用語や言葉による弊害は、沖縄リバイバル教会を出て痛い程体験しました。まず、驚いたのは教会外の人達との会話が成り立たないことでした。私がどんなに教会の中での事、被害について語っても、理解してもらえませんでした。常に私の目を覚ましてくださった盛山さんがいつも私達を見守り支えてくださり、他の方々と相談する時は盛山さんが通訳してくださるという不思議な状況がありました。カルトのリーダーは言葉の意味まで捻じ曲げ外部とのコミュニケーションを遮断し信徒の精神を隔離する目的があるのです。
※生活への細かな規制を設ける
教団によっていろいろな点での違いはあるが一応に言えることは、カルト教団は、信者の生活のかなり細かな点に至るまで統制している。テレビや新聞は見ないこと、食べ物に規制を設けること、自分たちの組織以外の人とは交わらないこと、家族や親戚づきあいは控えること、家族の行事には参加しないこと、などなどである。
カルト教団が信者にこのような行動規定を要求することは、それは教団形成において不可欠な戦略である。盲目な信者は自分たちの教会が真理をもっている証拠だ、という意識を信者に植えつける。簡単には守れない高いハードルを設け、カルト教団の神聖さ、権威を確立しているのである。
このような高いハードルは、信者が教団に弱みを握られているような錯覚を起こさせるのである。そのような引け目の感情は、信者が教団から脱退するのを困難にさせる。
さらに、このように生活を規制することは、自分で考えないで人の指示に従うという幼児性を養う結果となる。そのような精神構造こそ、カルト教団が信者に要求しているものである。
さらに、このように生活を規制することは、自分で考えないで人の指示に従うという幼児性を養う結果となる。そのような精神構造こそ、カルト教団が信者に要求しているものである。
そのような信者一人一人の従順さは、カルト教団の実態を覆い隠す役割も果たしている。カルト教団の内部の人にも外部の人にも、このような高い信仰規定を要求している教団が悪を行うはずがない、と信じ込ませるのである。オウムの信者たちが、「虫さえ殺すことを許していない教団が、どうしてサリン事件を起こすことなどできるでしょうか」とテレビのアナウンサーに食ってかかっていた。この原理が見事に働いている例である。
生活に対する細かな規制は、内部の人々の結びつきを強め選民思想を助長させる。同時に、外部の人々がカルト教団の信仰に入信するのに役立つ。多くの人々は、カルト教団の信者が素直で従順なのを見て、自分や自分の家族、身の周りにいる人々にないものを見出す。教義には胡散臭いものを感じていても、あのような人たちが信じているものだから真理であるかも知れない、と思わせてしまう。
私は沖縄リバイバル教会の儀間からの必要以上のマインドコントロールによって精神操作され教会外の人との交流はもちろん、友人や家族とも疎遠になっていきました。家の行事にも参加せず親戚身内とも距離を置いて行きました。また、お中元やお歳暮など宗教儀式に触れたであろうと思われるものはすべて廃棄していました。お米でも何でもそのままゴミに出していました。今思うと何と愚かなことをしていたのかと自分自身に呆れてはてて言葉になりません。盆正月などの行事の時期には、他の信徒もそうですが、緊張感が走るなか真剣に警戒しながらその時期を過ごしていました。中にはお盆に供えられた料理を口にしたところ、体調を崩したと証しをする信徒まで出る始末でした。
体調を崩したといっている信徒の横で儀間盛夫は証を聞きながらニヤニヤ嬉しそうにしていた事を思い出します。さぞ、マインドコントロールがいきとどいていることに満足して笑いが止まらなかったのでしょう。
※迫害されているという意識
カルト教団の教える教義は偏見と独断に満ちており、一般の人には、非理性的・反合理的に映る。しかもカルト教団は、家族生活、学校生活、地域社会、職場などの日常生活に対して、生活の細かな点に至るまで干渉します。その結果、信者は伝統的慣習や社会的常識を破ることになり、さまざまな点で周囲との衝突を経験する。カルト教団は、そのような家族や周囲との衝突を「信仰の故の迫害」と認識させる。
カルトは、周囲の人々の反対を、「真理を理解していない人たちによる真理に対する挑戦」「背後でサタンが画策している」「真理に立っているしるし」などと教え込む。そう教えられている信者は、反対されればされるほど信仰を強めていく。仲間の信者は、家族から反対されている信者を暖かく励まし、英雄扱いする。カルト教団の信者の場合、強い迫害を受ければ受けるほど、そのカルト教団の強力な戦士と化していく。ご家族の方が反対すればするほど、家族のもとには帰りたくなくなり、仲間と一緒にいたいと思うようになる。
沖縄リバイバル教会も正にその通りでした。信徒は何らかの問題が生じた場合、迫害だと思い込んでいました。また、家族が教会を非難したり、仏壇事しない私を責めたりすると家族にサタンが入り私を信仰から切り離そうとしていると、本当に信じきっていました。はた、儀間偽牧師は「迫害を喜べ」と散々言っていましたから、迫害こそが自らの信仰の証しなのだととんでもない錯覚を起こしている私がいました。
教会の中ではセルの仲間同士「大変だね、いつも祈っているからね。」と、上辺だけの言葉が飛び交っていました。あの中ではいつでも悪魔サタンとの戦いの連続であり、悪魔を打ち砕く祈りや追い出しの祈りに明け暮れていました。マインドコントロールが進めば進むほど、ますます、一般社会では生きにくくなっていました。
この迫害されているという被害者意識を信者にもたせることもまた、カルト教団にとってはリ―ダ―の意図していることなのです。迫害されているという意識を信者がもつことは、カルト教団にとって、信者教育のための重要なプログラムなのである。周囲から迫害を受けているという被害者意識が、信者たちの一致と結束に大きな貢献を果たしていることをよく知っておいていただきたい。残念ながら、カルトの問題で悩んでおられるご家族の方々で、このメカニズムに気づいている人はほとんどいない。
また、この規定は、信者に自らが不十分であることを自覚させる。その結果、ある信者は神から、より一層の恵みを受けようと歪められた信仰に熱心に埋没して行きます。また他の信者は、恐怖感を覚え、組織に忠誠心を示すようになる。 これまでしばしば、教団が信ずる教理や見解を変更してきたあるカルト教団は、タッキングという理論を持ち出します。ヨットは、帆が風の力を受けて、右に揺れ、左に揺れながら前進していく。同じように、真理もいろいろ変更されながら、次第に明らかになっていく、というのです。教団内の信者は、このタッキング理論によって、いとも簡単にだまされてしまいます。はじめに言っていたことが途中で変更になり、再びはじめに言っていたことに戻るなどタッキングというのは、その教えは違うではないかと外部の人が指摘したとしても、信者は全くおかしいと思わないのである。
宗教家たちがこの問題に目ざめ、責任ある態度、行動を取ってほしいものです。宗教家は、一般社会よりはるかに高い倫理基準をもっていなければなりません。良心の世界に生きる者が非倫理的な行動をし、法の世界に引きずり出されるようなことがあれば、それだけで宗教家失格です。
※恐怖心を植えつける
普通宗教は、人々に救いを約束します。キリスト教であれば、愛、平安、希望、喜び、信頼、祝福、解放、赦し、勝利などといった言葉が中心的モチーフとなる。
ところが、カルト教団が信者に与える根底的なものは、そのようなものではないのです。カルト集団によって信者の中に植えつけられてしまうもの、それは共通して「恐怖心」であります。
普通宗教は、人々に救いを約束します。キリスト教であれば、愛、平安、希望、喜び、信頼、祝福、解放、赦し、勝利などといった言葉が中心的モチーフとなる。
ところが、カルト教団が信者に与える根底的なものは、そのようなものではないのです。カルト集団によって信者の中に植えつけられてしまうもの、それは共通して「恐怖心」であります。
確かに、カルト教団といえども、それぞれ救いを約束する。しかし、どのような教義を説いていたにしても、信者を支配している感情は「恐れ」である。カルト教団に深くはまっていけばいくほど、その歪められた信仰に熱心になればなるほど、この感情が強くなっていきます。反対に、恐怖心が薄ければ薄いほど、その人はカルト教団から遠い存在なのです。
信仰から離れたら呪われる。この組織から離れたら行くところはない。世の終わりが近い、ハルマゲドンが近い。不信仰になるなら、病気や事故に見舞われる。サタンが家族を用いて反対する。伝道に熱心でなければ、不幸な目に会う。このようなことが起こったのは、自分が不信仰だったからではないか。仲間から見張られている。仲間から信仰に熱心でないと思われているのではないか。こんな自分を神は受け入れてくれるのだろうか・・・。
カルト教団の信者の心の中には、恐れの感情が果てしなく続いて行きます。
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私は5年前にも専門家の書いた、この個所を読みました。本当に身が震え「恐怖心」という文字に私の目は釘づけになったのでした。あの時のことは今でも鮮明に鮮明に覚えています。これを書いたカルトの専門家は私をずっと観察していたのではないか、と勘繰りたくなるほどに沖縄リバイバル教会の中にいた時の私の心境、ものの見方、考え方がそっくりそのまま書かれていたからです。
儀間は教会に行きはじめの信者にこう言っていました。「騙されたと思って3年間通い続けなさい。もし、状況が良くならなければ私が責任を取る。」と。この3年間という期間がカルト教団にとって最も重要な期間なのです。3年間に渡り礼拝祈祷会と、週二回マインドコントロールをかけられるのです。
平べったくいうと3日に一回の割合いで精神操作を受けるということなのです。お陰で私もその三年間で儀間によって立派なマインド・コントロール脳につくり変えられました。文字通り恐怖心のかたまりにされたのです。
熱心になればなるほど、恐怖心は膨れ上がっていきました。とにかくいつもサタンに狙われている恐怖心で一杯でした。毎月の十一献金をクリアするのに必死でした。本当に本当に怖かったんです。だって神の物を盗むな。献金ではない、返金なんだ、返す金なんだ、と言われていました。神様に返すから、献金じゃない返金なんだ・・ですって。今考えると、よくも・・まあ・・うまく考え付いたもんだと感心さえします。
お恥ずかしい話ですが、マインドコントロールの私の典型的体験談を一つお話ししたいと思います。
私が沖縄リバイバル教会へ通うようになって2年目か三年目の出来事です。仕事を終えて帰ろうとしたら私の車が消えていました。よくよく思い出したら荷物を出し入れするために表通りに車を置いたまま駐車場に移動していなかったのです。レッカー移動されたことに気づきました。
しかし、その時の私の思考回路が恐ろしく狂っていたのです。私は立ち止まって考えました。「なぜ私の車がレッカーされたんだろう。私は何も悪いことはしていないのに。これだけ神様に忠実に従って歩んでいるのだからこんなことが起こる筈がない。おかしいなあ?どうして?変だなあ?これは神様からの罰なのだろうか。」本当にお恥ずかしいのですが、あの時私は実際に本当にそうのように思ったのです。
私は何も悪いことはしていないと・・・。小学生でも判断できることを全く違う方向で思い込んでしまう脳だったのです。私は悪いことはしていないではなく、駐車禁止の場所に止めているから決められた社会のルールによって強制的に私の車は持って行かれたのです。誰が悪いのでもなく、止めてはいけないところに放置していた私が悪いのです。
しかし、恐るべきかな、マインド脳を持つ私は更におかしな方向に思いを巡らせるのでした。レッカー移動は2万5千円あまり、そんな大金を支払わされるとは、私に何かの原因があるはずだ。そうでなければ神様がそれを赦すはずがないと・・。車を取りに行くことも吹っ飛んで、私の頭の中はぐるぐる・・ぐるぐる・・と自分の罪を見つけるのに必死になっていました。
十一献金は間違いなく毎月捧げているし・・・。 あーでもない。こうでもないと相当長い時間一人で祈ったり、記憶をたどったり考えあぐねていました。すると・・・アアッとひらめきました。そういえば母からもらった一万円の十一献金を捧げていなかったに気づきました。
それだ。それしかない。
私は一人で納得したり気が付いたことに安堵したりしていました。今思うとただのアホです。気づかずに犯した罪も神様は見逃さないやっぱり儀なるお方であると再認識する私は、それ以後、更に更にこわくなり以前に増して緊張した日々を送ることになるのでした。
自分で自分の首を絞め続けているのです。精神操作の恐ろしさです。自殺にまで追い込まれるのも理解できます。その後、祈祷会で私は例の母からもらったものの十一献金の千円を用意し、献金袋に千円札一枚をしっかりおさめ、これに至った経緯を証し文として書き添え献金箱に入れました。すると次の礼拝で儀間牧師は得も言われぬ表情で講壇に立ち私の証し文をそれはそれは嬉しそうに読み上げるのでした。
あの時、私は儀間の姿を眺めながら、信徒の苦しい状況を語るのに牧師が笑いを抑えきれないという態度は何なのだろう?と疑問というか不信感が湧いて来ました。でもやっぱり私が悪かったんだからと、またまたおかしな思考にもどっていくのでした。
今は笑いを交えて皆さまの前でお話ししていますが、本当はいいたくない内容ですが、マインドコントロールを確実に知ってもらうには、わかりやすい事例だと思います。今だから話せる事です。
これはマインドコントロールの極みです。マインドコントロールの成功事例です。カルト牧師からすると理想的な精神操作マインドコントロールのお手本なのです。
皆さんの中には、私はマインドコントロールされていないから大丈夫、だと思っている方もいると思います。またはもうすでにマインドコントロールは解けている。カルト教会を離脱したのだから解けていて当然とお考えではないでしょうか。
マインドコントロールというのは、一方的にまたは強制的にかけられるものではありません。かける側、かけられる側がお互いに賛同し合って進んでいくものなのです。かける側はマインドコントロールを充分に学んび用意周到に意図的に信徒に対して何度も実験を重ねながら行う人格破壊であり人権侵害に当たる犯罪行為なのです。
講壇から一度に大勢の信徒に向かって語りかけるのですが、それぞれかかり具合は違うのです。長年の経験から偽牧師は操作しやすい信徒とそうでない信徒を見極めていくのです。正統な教会からカルト教会に信者が移ってくると、そのチャック度は一段ときびしいくなるのです。盛山さんが那覇バプテスト教会から私達を救うために沖縄リバイバル教会に転会したとき、「儀間は半年間様子を見ます」と、いい出しすことなどがそうです。
たとえカルト教会を離れたとしてもマインドコントロールの思考回路を回復させるのはそう簡単なことではないのです。かけるのに時間と年月がかかったように解くにも、その何倍かの時間がかかるのです。私のように10年精神を操作されると回復するのに10年、もしくはそれ以上かかると専門家はいいます。私はカルトである沖縄リバイバル教会を離脱して今年で8年目にはいりましたが、今でも何らかの問題が起こった時、色々と考え悩みます。
しかし、考えても、考えても、どうしていいのかわからない壁にぶつかることが沢山あります。それは一般的に私の年齢ではそれほど悩むことではない問題でもさえ私の中では、「わからない、これ以上考えきれない」と感じることが多いのです。簡単なことであったり、その場で即決できることがらでも、私の場合2・3日かかる場合もあります。
私は狭い沖縄から出たことがなく、それに輪をかけ母子家庭なので、社会生活も人間関係も夫がいない分半分のお付き合い範囲しかないのです。その挙句、10年間のカルト教会での生活が重なると残された半分の社会も捨ててしまうことになるのです。
そうなるとどこで人として成長できるのでしょうか。10年間私の精神世界は教会オンリーでした。元々社会性の身につきにくいところにいる私が儀間カルト教にのめり込み深く深くカルトに浸るのですから、悪く表現すれば、人であって人ではない、何といいますか、人モドキ、人間風な生き物でしかないのではと感じます。こんな表現をきいて嫌な気持ちになる方もいらっしゃるでしょう、おゆるしください。でも、綺麗事で済まされることではないのです。私はそこを強く言いたいのです。沖縄リバイバル教会を出たからいいさあ~、もう行っていないからいいさ~というほど簡単なことでは決してないのです。
ここにおいでになる皆さまの中には自分の歪められた思考回路に気づいていない方もおいでだろうと思います。今日はあえて刺激的な表現をさせて頂いております。ショックを受けたり、ワジワジーしたりすることは、悪いことではありません。止まっている思考を刺激するのです。カルト教会から脱出した方は当時の事を思い出すのも辛いかもしれませんが、よくよくご自分に向き合って頂きたいと思います。
傷は治療しなければいけません。辛かったことも悲しかったことも声に出して話してみるのです。少しでいいのです、勇気を出して下さい。声に出すことで自分の言葉を自分が聞くのです。自分が自分を知るのです。
それを続けていくと心の整理ができて行きます。自分がどこで歪められているのか、どこが弱いのか、どこで止まっているのか、時間はかかりますが必ず見えてくるのです。カルト教会の生活が長いと人との付き合い方がわからなくなります。非常識なことも悪気なくやってしまいます。
自分は温かい人間だと思っていても、気に入らないと感じた人を情け容赦なく切り捨てることもします。いい過ぎだと言われるかも知れませんが、私自身もそうでしたから私も含めて申し上げているのです。カルト教会はそのような歪んだ人格をつくりあげるのです。本来持っているあなたらしい人になる為に、ご自分に向き合ってみて下さい。
私自身この問題から逃げないで良かったと思っています。驚くような多くの悲しみ苦しみの中をかいくぐり、ここまで生きて来ましたが、今では苦しみより嬉しいことのほうがたくさんたくさんあります。問題に立ち向かうということは他人のためでもありますが、自分のためでもあるのです。私はこれからも聖書を手にした偽牧師、カルト教会がある限り、私のような被害者を出さないために、偽カルト牧師に近づかないように注意喚起を促しつづけます。声を上げ続けていきます。
ここは危ないよ、ここに来ちゃだめだよって教える人が誰かいなければ、困る人がいるのは子どもにでもわかることですから。どうぞ皆さんも元いた教会は問題がある、カルトとはいえなくても相当それに近いなあと体験上思われるのでしたら、声をあげて頂きたいと思います。
いいよ、誰かがやるよ、祈っていればいいさ、では何も変わりません。めぐりめぐってあなたのお孫さんが、またはあなたの子孫がカルトの罠にはまるかもしれません。決して人ごとではないのです。あなたが生涯現役で150歳くらいまでお元気なら別ですが。祈ったら行動です。イエス様は出ていかれて、多くの弱った羊に直接手を触れられたのではないでしょうか。
済みません。知ったかぶりして偉そうに、今、私は語っていますが、これはすべて盛山和子さんから教えて頂いたことです。そのことを盛山さんは自らの行動で大胆に行い続け、見せてくれました。
聖書を実践し生き方も最も信仰的であり、人間愛がとてつもなく、とてつもなく深いのです。今の時代、信仰に生きるとは盛山さんのような生き方を指すのだと私は思います。今の私が生きていられるのは盛山和子さんのお陰です。もし、盛山さんが他の牧師同様、他のクリスチャン同様に私達の被害を見ていながら、見ない振りをして口先の「祈っています」だけを残して去っていたなら、私はあの沖縄リバイバルチャーチから脱出することは到底できなかったのです。
殉教を美化し、奉仕奉仕の生活が長年続き、まともに寝た試しがありませんでした。自律神経失調症、バセドー氏病にヘルニアと常に足はパンパンに膨れ上がり身も心もギリギリの状態でした。病院へ行く暇もお金も無い生活でした。私の中の私はかすかな声で私にささやいていました。「そろそろ危ない、そろそろだよ。」と。どこかで仕方がないと諦めている私がいました。周りの事を考える余裕は残っていませんでした。
私はマインドコントロールの中でも行き着くところまで行き着いてしまっていました。母は私の身体を心配し奉仕をやめるように何度も注意を促していましたが、私は母の声を無視し神の働きを妨げるサタンの声だとして、全く耳を貸さない私がいました。そんな母に対して「私はいつ死んでもいい、どこで死んだとしても神様のところだからいいんだ。」とまで口に出していました。年老いた母に対してこれ以上の親不幸があるでしょうか。
神様が盛山さんを送って私達を救い出してくれたのだと私は確信しています。今は日々感謝あるのみです。しかし、盛山さんはいいます。
もうそろそろいいのじゃないですか、私のことはあまり出さないくださいとおっしゃいますが、私の体験を語るには盛山さん抜きで語ることは絶対にできないのです。今年で足かけ9年になります。9年の間というのは盛山さんの声を聞かなかった日が無いという程、密に合って頂き、教会問題、家庭家族の問題、仕事の事、人間関係、子孫の事と、とにかくありとあらゆる事で、戸惑ってばかりの私ですので、とにかく話を聞いてもらいアドバイスを頂き、私自身も良く考えイケない事はイケないことと素直に反省し、軌道修正してきました。
私が理解できるまで盛山さんは何度も何度も向き合ってくれます。その忍耐たるや並み大抵ではありません。迷いの中にある一人一人の状態、状況に合わせその人の痛いところ傷ついているところは皆それぞれに違います。そこを柔らかく優しく触れ耳を傾け、時には諭し癒してくれるのです。教会問題が起こった当初あまりにもショッキングな事件が立て続けに起こっていたので私は身も心も耐えきれず心療内科へ行きPTSD心的外傷後ストレス障害と診断を受けました。その後も心身のバランスを欠いた時、盛山さんは何度も病院へ付き添ってくれ主治医と深くコミュ二ケートしてくださいました。
また、長年断絶状態にあった私の姉や弟との仲も盛山さんの心からなるアドバイスを受け、そのように行動に移し続けた結果、兄弟との溝も埋まりました。私が傷つけてきた過去もありますが、一歩一歩修復へと進んでいます。また、母の介護についても、無知でおぼつかない私を手取り足とり指導してくださいました。子供のようにうろたえていた私が今、老人介護の仕事についています。過去の私から想像も出来ないことです。人は変わるのですよ、とよく盛山さんはおっしゃいますが本当です。人は人との出会いで変るのです。
時間が無いので多くは語れませんが、人は変わります本当です。私は盛山さんを師と仰ぎもっとたくさんの事を学び成長したいのです。少しでも盛山さんのようになりたいと願っています。そして、「宗教で傷ついた人々の会」支援者代表として盛山さんは日夜活動し、今では全国いたる所から相談の声が届いています。しかし、盛山さんのように行動に移してくれる人がいないのです。この9年間そのような人が出てくる事を待っていますが、まだ一人も出て来ないのです。協力してくれる方を私達は待っています。
盛山さんは今迄たくさんの牧師と直に会い被害状況を訴えてきました。結果公に実名もさらけ出し被害者のために闘って下さっています。実際、盛山さんの自宅に嫌がらせの電話、無言電話も数え切れないほどあります。その中には牧師からの批判の電話もありました。
しかし盛山さんは全く怯まず一つ一つ対処しています。ですからどの牧師からも嫌われる存在、目の上のタンコブ、取って捨てたい存在なのです。盛山さんがいなければ今の私たち被害者はいないからです。ここまで声を上げる被害信徒が今迄一人もいなかったのです。おかしな牧師たちにとって非常にやりやすい環境であったのです。
不祥事牧師カルト牧師にとって生きやすい沖縄であったところに、盛山さんのような一人ではあるが牧師が束になってやっつけようとしても微動だにしない大きな存在の盛山さんが出てきたのです。お婆だと思って甘く見ていたのでしょうが、問題牧師たちの想定外の事態が今起こっているのです。信徒は弱くないのです。信徒がいなければ教会は成り立たちません。
良い事は良い、いけない事はいけないというのは、人として当たり前の事だと思います。増してクリスチャンはどのように歩みなさいと聖書に書いてあるでしょうか。盛山さんを語ろうにも語れないほどの被害者と共に歩んできた9年分の血と涙が詰まった中身があるのです。
お願いがあります。どうぞ一人で悩まないでください。あなたの声を聞かせてください。あなたの隣の方の声に耳を傾けてください。そしてご自分の心の声にも耳を傾けてください。諦めないでください。切り捨てないでください。行動してください。
今日は被害状況について、半分も語ることはできませんでしたたが、皆さまの内に少しなりとも変化起こることを望みます。
最後になりますが、去年1月、重元牧師、崎原牧師、石原牧師が
声明文として沖縄県南部牧師会の「陳述書」に対する抗議文 が出されました。
その抗議声明文は南部牧師会の牧師全員に送られました。その後、盛山和子さんも支援者の立場から公に文書を出されました。その文書はインターネット上のクリスチャンが運営する有名サイトに公開されています。最後に盛山和子さんの文書を読ませて頂き今日の発表を終えたいと思います。
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「支援者として、70代の私が見た沖縄のキリスト教会と牧
師たち」
沖縄リバイバル教会裁判に提出された沖縄県南部牧師会(別称:南部教役者会)当時会長・喜納政弘(沖縄世界宣教教会主管牧師)の書いた沖縄リバイバル教会主任牧師・儀間盛夫擁護の「陳述書」は裁判の判決に大きく影響を及ぼす結果となりました。沖縄県南部地域にある教会の内、44教会の牧師が名を連ねる沖縄県南部牧師会は非常に粗末な牧師会であることが改めて判りました。
先般、沖縄牧会研究会を立ち上げ教会問題相談室・一般相談窓口を開設した
石川福音教会 重元 清 牧師
キリスト希望教会 崎原盛親 牧師
与勝バプテスト教会 石原 真 牧師
先般、沖縄牧会研究会を立ち上げ教会問題相談室・一般相談窓口を開設した
石川福音教会 重元 清 牧師
キリスト希望教会 崎原盛親 牧師
与勝バプテスト教会 石原 真 牧師
この三牧師が平成23年1月14日付けで出した「声明文」は、沖縄県南部牧師会の総意として裁判に提出された「陳述書」に対する抗議の声明文です。その声明文は南部牧師会44人の牧師一人一人に送られました。
その「声明文」を見ても判るように私達は南部牧師会に対して再三再四、忍耐を持って「陳述書」に対する話し合いを幾度も持ってきました。しかし、責任の所在が全く明らかにされずあちこちへ、たらい回しにされ、どの牧師も責任逃れをするという醜態をさらけ出していました。南部牧師会の長老方は責任を現三役に負わせようとしましたが、現会長は「責任はとれない」と拒否し長老から投げられたボールをそのまま長老方に投げ返した状態です。
沖縄県南部牧師会の中心的な長老方は、以下の三人です。
那覇バプテスト教会・主任牧師 国吉 守
沖縄新生教会・牧師(フォースクエア)比嘉幹房
那覇ナザレン教会・牧師 斎藤清次
この三人の長老方の過去の功績を認めつつも彼らが今現在の沖縄のキリスト教会を堕落させているという実態を知ることとなりました。
支援者である私、盛山和子は思います。若い牧師たちがあまりにも自分というものを持っていないところにも原因があるのではないかと。民主主義の現代社会において、対等な人格関係であるはずの牧師方が長年無意識のうちに長老の一言ですべてがひるがえされ「右へ習え」と圧力をかけられる。
自由が制限されそれに対してもの申すこともできず従う若い牧師たちですから善悪の判断もおぼつかない状態なのです。この南部牧師会は信徒のための牧師会ではなく長老たちの欲を満たすための会になってしまい、若い牧師たちを振り回し長老たちの権威を示すための南部牧師会でしかありません。
若い牧師たちは、もう少し自分というものを持って頂きたいものです。今までのようなやり方でこの先、南部牧師会が進まれるのであれば真理に基づいた説教を述べるに値しない方々であると思われても仕方のないことです。そういう牧師を師として尊敬し、その教会に足を運ぶ人がはたしているのでしょうか。
沖縄にいる多くのクリスチャンはその実態を知ることに疎く気付きも遅い。それが敬虔なクリスチャンだと思い込んでいる状態のように見受けられます。そうだからこそ程度の低い牧師の説教を鵜呑みにするのではないでしょうか。戦後65年今よりもっと酷いことが多々あったことでしょう。長老・牧師方はこれまですべての問題に蓋をし、握りつぶしてきた結果、今日のような悲惨な状況に至らせたのでしょう。
しかし、時代は進みインターネットが発達しブログなどを通して信徒の声が世に広く出せるようになりました。 教会、牧師の起こした不祥事に蓋をさせてはならない、また蓋が閉められない時代になってきています。南部牧師会の長老に至ってはインターネットを否定するような言動があったりと時代錯誤も甚だしく、真理に基づいた問題解決へ導くための行動を取る能力も無し、自浄能力も無し、と強く感じたのです。
真に残念なことです。
今回、声明文を出してくださった崎原・重元・石原牧師は、今後長老の方たちから嫌がられ虐げられると思いますが、そのとき「マタイ7章22~23」を思い出してください。たくさんの若い牧師が真理に目覚め、発言し行動を起こされることを望みます。「何を恐れているのですか。」「畏れおののくべきお方は愛深き天のお父様だけですよ。」
最後になりますが、これまで苦しみの中多くの情報をお寄せくださりご協力いただいた大勢の皆さま、この場を借りしてお礼申し上げます。これからも気軽にご連絡ください。今迄通り匿名でも実名でも結構です。連絡お待ちしていますよ。
私、盛山和子は沖縄リバイバル教会事件に携わって8年を迎えます。一生懸命被害者の痛み苦しみを判って頂くためにこれまで大勢の牧師にお会いしてきました。ですが、最後まで傷ついた羊の身になって考え尽力くださったのは、声明文を書かれた三人の牧師だけでした。
その他の牧師方はあまりにも無関心で、ややもすると傷ついた羊を再び絶望と失望の淵に追いやってしまうような状況でした。
でも、皆さん神様は生きて働いていらっしゃいますので、信仰心だけは失わないでください。
その他の牧師方はあまりにも無関心で、ややもすると傷ついた羊を再び絶望と失望の淵に追いやってしまうような状況でした。
でも、皆さん神様は生きて働いていらっしゃいますので、信仰心だけは失わないでください。
お願いします。
これからのキリスト教を担う若い牧師たちが、きっと沖縄のキリスト教会を変えてくださることを願いつつ神様を見つめ続けてくださいますように。
神様、この場を与えてくださりありがとうございます。
2011年2月10日
「宗教で傷ついた人々の会」
支援者代表 盛山和子